私たちの「今」にあったものはなんだろうか

聖徳太子の人身掌握術を一言一句現代に当てはめてその行動基準とするのはあり得るのだろうか。

1400年前に聖徳太子が制定した「十七条の憲法」は争いをやめて、話し合いで物事を決める大切さを説いたものと、ある。

それは素晴らしい内容と思う。

しかし、それを研究し、私たちにはまだできないと懺悔するとなると、どうなんだろうと思う。

牧師先生は炉で金を精製するように、不純物を私たちから取り除かないといけないと聖書は語っているとおっしゃる。(説教を聞いた私の捉え方です)

今週もやっぱりできませんでした、懺悔いたしますと、永遠にやって、発展はあるのだろうか。(信者ではない私からは、そう思えてしまう)

2000年やってできないなら、次の2000年もできるかどうかかなり怪しいと、私は思ってしまう。

神との対話」を読んだ私は「不純物」があるからこそわかることがあり、「不純物」があることもまた、感謝であり、「不純物」も含めて神様は私を愛されていると思う。

神様は「ヒトラーは天国に行った」という。

ガザ地区の問題を引き起こした元の一つ、ともいえる彼、大罪を犯したと断罪されている彼もまた、神様は愛している、という。

 

争いをやめて、話し合いで物事を決めることは、大切なこと。

世界政府ができたら、大きく世界は変わるだろう。

そうやって、聖徳太子のお創りになったものが発展した時、今までの争いは感謝な出来事となるのではないだろうか。